織田信長と伊吹山の薬草園
作成:筒井杏正

 伊吹山には薬草園が作られていたことはよく知られていますが、当時から伊吹山が薬草園の適地であったことと、そこには豊富な薬草が自生していたことにも,織田信長が薬草園を開かせた理由の一つと思われます。
ポルトガル宣教師
日本でキリスト教を布教した
貢献した聖フランシス・ザヴィエル
織田信長
ポルトガル宣教師の進言を受け伊吹山での
薬草園開設を許可したという織田信長
 さて、その内容を察するに、織田信長が安土城にいた天正年間の頃、ポルトガルの宣教師と謁見した際、宣教師が人の病を治すには薬が必要であると、そのためには薬草栽培が必要であることを進言したそうです。また、もう一説には、鉄砲火薬の原料となる植物も含め移植したとも。
 その進言を受けて信長は伊吹山に薬草園の開設を許可したのです。50ヘクタールという広大な薬草園には、西洋からもってきた薬草が3000種類も植えられていたと言われています。※日本の現在の植物は、約6,000種。西洋からもってきた薬草3000種というのは、かなり眉唾ものです。

湖西から琵琶湖を前景に伊吹山を望む
湖西から琵琶湖を前景に伊吹山を望む(撮影:藤本秀弘)

 この薬草に関しての実録は発見されていませんが、当時からかなり経過した江戸時代初期に「南蛮荒廃記」「切支丹宗門本朝記」「切支丹根元記」などに「伊吹山には方五十町の地を薬園とし三千種の薬草を植えたり」と記されています。しかし、徳川時代は、キリスト教徒への弾圧が厳しく、この著書は、俗書であるからあまり有力な史料と見るものでないとされていたそうです。いわゆるこの書にて歴史的な考証を探るには困難ですが、西洋の薬草3000種と共に入ってきたと思われる雑草類が今も伊吹山のみに見いだされていることは、薬草園を設けられたことの力強い証拠になっているのです。その証拠である大切な植物こそ「キバナノレンリンソウ、イブキノエンドウ、イブキカモジクサ」なのです。

 ★付則資料:長崎大学薬学部「長崎薬学史の研究」資料1:薬学年表より引用→下段につづく
キバナノレンリソウ
キバナノレンリソウ(マメ科)
イブキノエンドウ
イブキノエンドウ(マメ科)
イブキカモジグサ
イブキカモジグサ(イネ科)
▼長崎大学薬学部「長崎薬学史の研究」資料1:薬学年表より引用
1558年(永禄元年)
 アルメイダ、豊後府内にわが国最初の洋式医学校を創立した. 日本人医師の養成も行い、西洋医術の導入者・社会福祉事業家として知られている.
 西洋文明に関心をよせていた織田信長も宣教師を保護し教会堂(南蛮寺)、安土に学校(セミナリオ)の建設を許した. 宣教師は布教活動の傍ら医療活動も行った.
 グレゴリアとルイは病人に投薬と治療を施している.
また
江州伊吹山に薬園を設けポルトガルより3000種の薬草を移植したという. その後の豊臣秀吉は、ヤソ教禁止令(1612年)を出して彼等を追放するが医術は大阪、堺、長崎等を中心に残っていく.
 これらが南蛮流医術の興りとなる. 南蛮流外科で知られているのは、ポルトガル人 慶友(本名ハッテー、肥前高木に居た)、沢野忠庵(本命クリストファン・フェレーラ、南蛮外科秘伝書3巻著す)、半田順庵(長崎の人)、西吉兵衛(元和2年南蛮大通詞になり、西流外科の一派をなす)、杉本忠恵(長崎の人)、栗崎道喜(長崎で栗崎流外科を興す)、らである.